「嫌われる勇気」はなぜ人気?~実践してる人は見たことない

嫌われる勇気

希望が持てる本というよりも、険しく厳しい道です。実践できている人は少ないのではないでしょうか?

 

別に嫌われてもいいけど?

いちご

嫌われることが目的ではなく、貢献が目的なのよ。

 

「嫌われる勇気」がいまだにベストセラーです。あるブックオフの店舗に行ったら、1位になってました。

なぜ、こんなにも人気なのでしょう?

この本を読んだあと、私は、希望を感じるよりも実践の難しさについて考え込んでしまいました。

この本はアドラー心理学について述べています。

アドラー心理学は、実践できたら素晴らしい。ただし、希望というよりも、厳しい道だと感じます。

 

「嫌われる勇気」by 岸見 一郎,古賀 史健

トラウマの否定~自分の中に「目的」がある

まず、アドラー心理学ではトラウマを否定しています。

「トラウマ論」ではなく、「目的論」です。

 

われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

 

「七つの習慣」でも言われている、「主体的に選択する」ということですね。

経験自体に意味があるのではなく、その経験にどのような意味を自分は与えたのか?

トラウマのせいでもなく、他人のせいでもなく、自分の選択です。

そして、その選択をしたのは、自分の中に目的があるから。

例えば、気分がとてもムシャクシャしているときに、何か不快な出来事が起きると、必要以上に怒ってしまうことがあります。

「怒りたい」という目的が、先にあるのです。

そして、ちょうどよい現象が起きてくれると、それを言い訳にして「怒る」という目的を達成できる。

「会社を辞めたい」と思っているときに決定的な出来事が起きると、「会社を辞める」ことを後押ししてくれたりします。

目の前の出来事が重要なのではなく、「会社を辞める」理由を求めていただけですね。

 

「トラウマ」も同じ。

 

自信のない自分でいたい。だって、なぐさめてもらいたいし。

いちご

 

「トラウマ」という言葉を有効活用しているだけ。先に目的があったのです。

なお、自分を好きになれない人は、「自分を好きにならない」という目的をかかげ続けているのだそうですよ。

私も、家庭環境を言い訳にして、ずっと苦しみ続けてきました。

あくまで親が悪い。環境が悪い。そして、それを言い訳にしている自分が嫌い。

自分を嫌うために、親のせいにしていた。

 

こんな自分がキライなのよ!

いちご

 

変なカラクリですが、腑に落ちる話です。悲劇のヒロインぶりたいということです。

または、「対人関係で傷つかないこと」が目的であることも。

憎み続けていれば、対人関係を築かないことに言い訳ができます。

最終的には、やはり自分で選んでいますね。

ちなみに、劣等感をもつのは悪いことではないそうです。それは、向上心にもつながるもの。

良くないのは、劣等感を言い訳にして、何もしないことです。

「○○だから○○できない」

それは劣等感ではなく、立派な言い訳。

 

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

 

すべては、他者と比べることに問題があります。

自分で自分の目的に気づくこと。

自分で、「いまのライフスタイルをやめる」という決心をもつこと。

そして、他者との比較ではなく、昨日の自分と今日の自分とを比較すること。

それができたら、他者との競争からおりることができるし、変わることができると感じました。

ただ、なかなか厳しいです。

承認欲求の否定~他者を満たす必要はない

次に、アドラー心理学では承認欲求も否定しています。

これも、難しい問題ですね。

「嫌われる勇気」が愛読書だという人が、「自分は、ほめられて伸びるタイプだ」と言っていました。

「嫌われる勇気」に希望を感じていても、承認欲求はやはり手放せない。そんな人は多い。

周囲を見渡しても、みんな、承認欲求で動いているように見えます。

 

「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。明らかにおかしな話でしょう。

 

「こんなことをやっても意味がない」
「誰もほめてくれないから、やめよう」

行動をやめる理由としては、常にそれじゃないでしょうか。

承認欲求が満たされないことに対する不満です。

 

だって、頑張ってもほめてもらえない。むしろ怒られる。理不尽だよ?

いちご

 

だけど、その行き着く先は、「他者の期待を満たす」人生であり、本当の自分を失ってしまう。

常に、他者の視線と他者の評価。そこが基準になり、身動きがとれない。

 

あれ? ますます自分を抑えなきゃいけなくなってる?

いちご

 

「誰もわかってくれない!」と嘆くとき、自己主張しているようで、実はその逆。

他人の言いなりの人生、他人任せの人生を生きているわけです。

ほめてくれる相手がいないなら、自分は何もしない。それでは自分の人生とは言えなくなります。

ブログを始める人は多いけれど、やめていく人も多い。その理由の第一は、「誰も読んでくれないから」。

承認欲求に振りまわされてしまうのですよね。

上司や同僚に嫌われているから仕事をしたくない、というのも同じ。

仕事をしたくないことの言い訳として、嫌いな上司や同僚を自ら生み出しています。

それが「目的論」の考え方。

 

上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだ――。

 

つまり、「嫌われてもいい」という前提条件として、次のような要素が必須であるわけです。

 

  • 自分に嘘をつかない
  • 自分の課題から逃げない
  • 自分の目的に向かっている

 

それを無視して、「そうか、理不尽な上司は無視すればいいのか!」と、そこだけを拾うから、「この本を読むと希望がわいてくる!」という感想になるのでしょうね。

実際、私も最初は、そこを求めていました。

だけど、自分自身の課題や目的と向き合わなければ、何も変わらない。言い訳を作って逃げているだけです。

 

承認欲求の否定というのは、「他者の期待を満たすために生きていくのはやめよう」という意味です。

「誰も評価してくれない」そんな理由で落ち込んだら、自分を見直すときです。

自分は他者の期待を満たすために生きてきたのだろうか?と。

変えるべきなのは、評価してくれない他者ではなく、自分の人生を生きられない自分自身だから。

承認欲求を手放すコツは、「見返り」の発想を捨てることだそうです。

「何かを与えられたら返さなければならない」、そんな見返りに縛られていると、「これだけ与えたんだから返してくれて当然」と思ってしまう。

他者に対しても、「返さなきゃ」という義務感に縛られてしまう。

だから、見返り目的は捨てる。自分のやるべきことは自分で決める。

自分の目的を再確認してみることですね。

「承認欲求」と「見返り」は手放してみよう。

対人関係から逃げてはならない~人生のタスクと向き合う

私がもっとも困難に感じたのは、人間関係を「タスク」だととらえ、逃げてはならないという部分です。

 

どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。

 

「先延ばし」は意味がないですね。気づいたときに、ちゃんと向かい合ったほうがいい。じゃないと、タイミングを失います。

それは痛いほど実感してきました。

あのとき、自分の気持ちをちゃんと言っておけば良かったと。

でも、向かい合うって難しいです。特に嫌いな相手に対して。

実は、相手の欠点が許せないから嫌っているのではなく、「相手を嫌いになる」という目的が先にあって、欠点はあとから見つけているのだそうです。

目的が先という話には納得できるのですが、実際に嫌いな人を目の前にすると・・・

 

先にアタシを嫌ったのは相手なのよ!

いちご

 

そんな気持ちが出てくる。

どうしても許せない。腹が立つ。

でもそれは、対人関係を回避するための「言い訳」。

「相手の欠点が気になる」というのは「人生の嘘」なんだそうです。妄想のようなもの。

たしかに、同じことをされても、Aさんにはムカつくけど、Bさんには笑えるということがある。

だから、その欠点自体が嫌いなのではなく、Aさんを嫌いになること自体に目的があるってことなのです。

そうなんでしょうけど、やっぱり、「嫌いになりたい」という気持ちが変わらないわけですよ。

難しいなぁ~と感じてます。

難しいからこそ、何度も読む必要が出てきます。本が売れ続ける秘訣はそこでしょうかね。

共同体感覚~他者を仲間だと見なすこと

トラウマを否定し、承認欲求を否定した先にあるものとは、「共同体感覚」という、他者を仲間だと見なしている世界です。

誰かのせいではない。誰かに評価されたいわけでもない。誰かが何かを与えてくれるのでもない。

仲間に囲まれ、仲間に貢献しながら、自分は自分の人生を歩む。

「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えながら。

周囲が仲間であるなら、嫌われるかどうかよりも、どう貢献できるかのほうが気になってくるというわけです。

 

嫌われてもいい。独りで生きていく。それじゃあダメなの?

いちご

結局は、他者貢献の中に幸せがあるって言われています。

 

「嫌われる勇気」の生き方って、なかなかハードルが高いですね。だから、何度も読まないと忘れちゃうのでしょうね。

 

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

 

「嫌われる勇気」の続編は、「幸せになる勇気」です。

そこには、やはり「アドラー心理学」は厳しいと書いてあって少し安心しました。

やはり、そう簡単なことではありませんね。

幸せになる勇気「幸せになる勇気」~なぜアドラー心理学は難しいのか?

 

ということで。

 

イライラがくれたもの

目的が先にあることを、見つめてみよう。

「嫌われる勇気」の生き方には、けっこうな覚悟がともなう!

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